The sorrow like a revolving lantern 在りし日は彼方へ

 

  皆さん、ご無沙汰しています。

今年もはや残すところ10日を切ってしまいました。伝説の人物は雪舞う地でトナカイさんと出発の準備に大わらわのはずですね。(笑)

 

  別件で時間をとってしまって、とうとう11月のブログをお休みしてしまいました。ライフ・ワークとしてこの映画ブログを続けてゆきたい私にはとても残念なのですが長い年月にはこんなこともあるでしょう。

 

  久しぶりの今回は映画史において外すことのできない名作をとりあげました。

トリロジーとしても重圧で完成度が高い作品から 「The Godfather Part Ⅲ」 をとりあげました。

映画という枠を超えて歴史ある 荘厳な博物館に眠る古書の表紙をひらくような、そんな感覚に浸れる作品をこれの他に上げるのはなかなか困難なことです。

初作より全編を通じて感じるシルクのような華奢な肌触りとペルシャ絨毯ををゆったりと歩ますかのような感覚、そこに織り込まれるシシリアの地と血によって結ばれるファミリーと呼ばれる組織の人間達の生きざま、極限に反して描きこまれる暴力はコッポラ監督の独壇場といえます。

対比が素晴らしい。

  一部マスコミからマフィアの暴力や行動を賛美しているような映像描写と批判された彼ですが、この家族・組織という血族を守るための暴力はこの映画から差し引いてはならないパーツだと私は感じています。

「血の代償は血をもって、これに報いる !」 もちろん賞賛などにかけらも値しませんが、これは片や人間の歴史でもありました。

 

  作品的には前二作で際立った演技をしたロバート・デュバルの出演がなかったことは大きなマ

イナスとなり、位置づけとしても前作の後日談・・・噛み砕けば、その後のドン・ マイケル・コルレオーネというものではありますが、わたしはこの作品が好きで評価したいと思います。

 どうしてもそれに贖うことのできない宿命や業というものが人間にあるとすれば、それがこれなのだと。

前述した血の代償はこれをして計り知れない結末をマイケルに突きつます。

提示されるのではなく、突きつけられるのです。

ヨハネ・パウロ1世やロベルト・カルヴィ(銀行頭取)を巻き込んで世界的な大スキャンダルへと発展したローマ教会・イタリア政界そして闇の番人たるマフィアの癒着を、この作品は現実として織り込んでいてそこがとても興味深く観れたのです。

 

  容赦ない弾丸の洗礼を受け血に染まる娘 メアリーの瀕死の身を抱きしめ、この世のものと思われぬ悲しみの雄叫びをあげるアル・パチーノの「魂の演技」が忘れられません。

そして、フィルムの中で時流れすべての宿命と業を死によって解き放つことしか術がなくなった年老いたマイケルが椅子という、さも己の人生から転げ落ちて終わる忌が、我々に人の虚しさを教えます。

およそこの地にひとというものが現れて以降、神の御前でひとは平等であり 一切の例外はありません。

 

  王朝の栄華をその一身で享受したかの金正日の死は我々を驚かせはしましたが、隣に眠る父の金日成もまた同じくして栄華を天上に持ち込むことは許されませんでした。

うつつの辻褄はさいごにすべてリセットされ神は平等を与えたまいます。

 

悲しみは走馬灯のごとく、それはあなたやわたしにも言える人生ではあります。

そしてうつつの栄華を極めし者達にさえも ・・・