社会から孤立したベトナム帰還兵のタクシー運転手トラビスをロバート・デ・ニーロが演じた1976年マーティン・スコセッシ監督メガホンの 「タクシー・ドライバー」 です。
優しさも思いやりも自分の想いとは別に全部が裏目に出てしまう。いいと思ってやったことが受け入れられずに募るもどかしさ、無器用な世渡り、それはやがて主人公の中で執着心という狂気へと変わっていきます。
巷のしかもすぐ隣に存在しないとは言い切れない 「自己の存在」 をストイックなまでにデ・ニーロが演じました。
高名な映画評論家が 「エクソシスト」 のリンダ・ブレアをして将来とてつもない女優になると言い切りましたが、当時13歳にしてこの時代の社会病理とも言える少女売春婦アイリスを演じたジディ・フォスターの快演はことさら強烈でした。
この少女の心の闇を埋める者がヒモでありポン引きのスポートの優しさであるとは女の心理のきわどさではあるけど ・・・
一般人とは異なる視線から社会を垣間見るタクシー稼業のトラビスは、蓄積されてゆく社会からの孤立感を別の方向に捉え始めます。
「社会浄化」 ともいえる行為、いわば彼なりのということ。
突然、ヒモから逃げてきたアイリスをどうすることも出来ずにクルマから見送ったトラビスが意を固めその 「浄化」 へと突き進んでゆくシークエンスはこの映画のハイライトです。
たたでさえ痩せた体を刹那的に絞り上げ鍛えてゆくトラビスの所作は一種の倒錯した狂気の描写であり、これをデ・ニーロが見事なまでにやってのけます。
「レイジング・ブル」、「ディア・ハンター」 「ゴッド・ファーザー」 と並んで彼のベスト・アクトと語られるデ・ニーロの演技は圧巻でさえあります。リメイクの効かないネガがここに存在します。
やはりデ・ニーロはいい!
上背もさしてない彼ですが、一端演技に入るとそんな物は吹き飛ばしてしまう。
シャイな笑顔も、モヒカンに刈った狂気の笑みの拍手も ・・・ 追いかける者を排除するキャリアの起点がこの映画の随所に見て取れます。
街のゴミを排除したトラビスが英雄として扱われ社会復帰してゆくくだりに、無理のある構成と取る向きもありますが、これもこの時代の社会病理として捉えラストのベッツィ(シビル・シェパード) とのやり取りは対比としての監督のアンチテーゼとわたしなりに解釈しました。
意図が分かりにくいと思われる人にさえデ・ニーロとジョディの演技は納得できるものと考えます!
最後に都会の雑踏を歩く人の波を追うタクシー運転手の視線はあなた方とは全く違うものを見つめているもの、これはタクシー稼業に浸かった者でしか理解できない感覚です。
彼らはひとが嫌う雨に笑い、ひとが好む爽やかな青い空に泣きます。